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今日は、三十三観音 九番札所のご紹介です。

旧山鹿郡三十三観音霊場 ” 千福寺 ” 十番札所

 

ここは、山鹿市平小城地区、現在は廃校になりましたが、旧鶴城中学校の上の部落にある観音堂です

場所は、こちら。

国道3号線より、平山温泉方面へ進み、右手に旧鶴城中学校が見えましたら小さな橋があります。
その橋を渡ってすぐより、右に曲がり、中学校を過ぎ林の手前より右に曲がると、堂ノ原という地区に入ります。

往時の隆盛を思わせる古寺の風格

(※お堂の手前に、駐車場がありますが、地震か何かの影響で土手が崩れており、車1台が停めれる程度です)

木立の中右側の石段をあがると、4間×3間の瓦葺きの立派なお堂があります。

境内も広く、往時の隆盛が感じられます。

本堂は、十一面千手観音で高さ160センチ。木彫りの金色の立像で、山鹿市の指定文化財です。
十一面千手観音は、頭の上に十一の観音と、数十本の手を持っている観音なので、多くの人々のあらゆる願いに答えてくれたといわれます。
平成11年に修理されたとのことです。

(観音像の写真はありません。)

地域の人々に支えられた信仰の地

『鹿郡旧語伝記』に
「この寺は、往古、聖武帝の御宇神亀4年、8月18日建立。本尊は、行基作、観音安置す。
伝に曰く、朱雀院の御宇天慶年中に信田小太郎が姉、小太郎を訪ねてここに至り、この時一宇を立てしという。
京都南禅寺末寺たり」とある。

狩野派になる絵馬も残されている。お堂は、手入れが行き届き、境内に水道があり、地域の人々の信仰から支えられている事が感じられます。堂右上に「やけど観音」がある。

(山鹿双書四・旧山鹿郡三十三か所札所巡り・児玉徳夫講演録より先生講演録より引用)

■ご詠歌

やすらいで えつとにた折る山ざくら なしぬき花も たましありけり

 

千福寺の建立について

千福寺建立については、二つの説があります。

朱雀院の天慶年中に、信田小太郎の姉が一堂を建てたというもの

村上天皇の天暦十年に、平 将門の娘が出家して尼となり、諸国を廻っている途中、此の地に立ち寄って一堂を建てたというもの

また、聖武天皇の神亀四年八月十六日に建てたと書いてある本もあるそうです。

やけど観音について

観音堂の右手の階段を上がると、登りきった上の段に『 やけど観音 』が祀られています。

やけど観音は、山鹿市菊鹿町にあります相良観音の裏木で作られたものと言われ、相良観音と同型の座像です。
建立は千福寺よりも古いといわれていますが、年代は不明です。
以前は、阿弥陀坂(今の墓坂)にあったが、ある時、乞食がこのお堂にとまったその夜、出火してお堂と共に阿弥陀如来も黒焦げになりました。
それで、地区の方々が現在地に建立したという事です。
お堂は立て直しましたが、仏像は黒焦げの仏像をそのまま安置した。
それ以来、『やけど』に霊験あらたか、近郷近住はもちろん、県外からの祈願者も多かったという事です。
ちなみに、お供え水を持ち帰って飲み、患部に塗布すれば、やけどの跡かたもなく完治するといわれています。

観音堂周辺の写真
をご紹介

やけど観音堂に上がる前に、一段整地され、一つの社があります。

また、観音堂の左手には、石塔があり、その上の段にも石の祠があります。

観音堂へ上がる階段左手横に設置された、観音堂の看板。

また、観音堂へ上がる階段の右手には、何かを祀る石碑と首のない地蔵像があります。
どんな謂れがあるのでしょうね。

個人的には我が家の近所でもあるので、時々、一人でのんびりとしに行くこともあります。
最近は、あまり行けていなかったので今回久しぶりに行きましたが、駐車場の土手の崩れがびっくりしたしたね~。

ではでは~~

※この記事は、以下の書籍を参考に書いています。
(山鹿市老連町おこし運動推進協議会の発行した「ふるさと山鹿」)
(山鹿双書四・旧山鹿郡三十三か所札所巡り・児玉徳夫講演録より先生講演録)

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