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今日は、『三岳探訪 ~ 三岳小学校教育百周年記念誌をたどる ~』より、ご紹介します。

(以下、平成30年に三岳校区地域づくり協議会で発行された冊子中P33を引用する形です)

◎ 加藤清正の腰掛石

三岳小学校百年誌にある加藤清正についての話です。
『第4節 近世の三岳』には、清正入国から肥後五十二万石の領主となり、どのような功績があったかなどが詳しく書かれています。
 安土桃山時代、天正16年(1588)に豊臣秀吉から肥後の北半分、玉名・山鹿・飽田・託磨・菊池・合志・葦北を与えられます。
清正27歳の時でした。

~ 前半部省略 ~

 熊本の人は、清正の事を『せいしょこ』さんと呼び、長い間藩主だった細川公より親しみ深く感じられるのは、県内に加藤清正時代の土木治水事業が多く残っており、そのことにまつわる伝説・遺跡が現在まで伝えられていることからでしょう。
 三岳にも、清正公伝説がありました。それが、『清正公の腰掛石』です。
「日輪寺の参道を下り、三号国道線を横断して、石村用水(寺島用水とも云う)の橋を渡ると、大きな榎の木があり、その根元地上にはみ出た大きな根の間に挟み込まれた石がある。清正の腰掛石と云う。≪検地の時に清正が腰掛けた≫との立札が立てられているが、伝説では、石村用水を掘った時の腰掛石となっている。
 たかが石ひとつである。然し思えば、それ程までに人々の心に生きてきたものと云えるだろう。ちなみに、寺島の明星寺には清正を祀る石碑が立てられている」と紹介されています。
清正は、慶長16年には亡くなり、加藤家の肥後治世は清正23年、忠広21年で終わり、細川忠利が入国して明治時代まで200年以上の細川藩治世が始まりました


1596~1614年に開削された寺島井出は、水路延長3,000間(5.4Km)杉、石、山鹿を経て中村まで至り、150町(150ha)の水田を灌漑します。
寺島公民館裏の以前サブタがあった水路脇には、明治16年、昭和28年、同58年の改修記念碑がたてられていますが、特に明治16年の碑には、管理責任、分水の方法、修繕費負担などの約定が刻まれています。清正の時代から守られてきた慣行かもしれません。今も石や杉の人達が、公務を務められています。

上記の内容が記載としてありました。

さて、その(日輪寺の参道を下り、三号国道線を横断して、石村用水(寺島用水とも云う)の橋を渡ると、大きな榎の木があり、その根元地上にはみ出た大きな根の間に挟み込まれた石がある。)のところですが、現在は立札はありません。
場所は変わりませんが、集落の小道に入るところにあるので、ちょっとわかりずらいと思います。

場所は、こちらです。

さて、どれが腰掛石かはわかりません。
ただ、この場所が言い伝えられる場所なのですね。
いや、ロマンがあります。

ここの石に腰かけた清正が・・・・。

とか言った、やり取りがあってたのかな?とか妄想すると面白いですね。

言い伝えは地元の方々の愛した気持ちのものなんでしょうね~。


※この記事は、以下の書籍を参考に書いています。
(三岳探訪 ~ 三岳小学校教育百周年記念誌をたどる ~)


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