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山鹿の三岳地区にある「震岳」は昔は「踏寄峠」といったらしい。
これは、不動岩と彦岳の首引き伝説で二人が踏みよったことで出来た山と云うのが由来らしい。

その後、景行天皇が土蜘蛛津頬と征伐に山鹿に来られた時、津留の近津宮に行在所を置かれたのち、この踏寄峠に上がられたことから、その後「高天山」と呼んだらしい。
天皇がお上がりになった高い山の意味なんでしょうね。

で、その後土蜘蛛の津頬が勢力を回復して逆襲した来た時、景行天皇は、攻められこの高天山に籠城された。
景行天皇は、天神地祇の加護を祈念されると(日子岳)彦岳の頂上に、白覆面白馬の士が現れ弓に白羽の矢をつがえ、高天山の七合目あたりに放つと高天山は大きく揺れて、敵の津頬の軍勢の形勢は崩れその間に景行天皇側が攻め立てたことで、逆転し津頬に勝ったそうです。

そのことにより、土地の人々は「揺ヶ嶽」と云うようになったそうです。

それからしばらくは、 揺ヶ嶽と呼んだそうですが明治の頃には、人々の中では「弓の矢が当たって山が動くなんてそんなことがあるかよ」と云い、信じる人はいなくなり、だれともなく「震岳」いうようになったそうです。

そんな、震岳も昔は山鹿町の方々には、「山鹿小富士」などとも言われていたそうです。
昭和8年(1933)に野口雨情によって改作された「よへほ節」にも、「 肥後の小富士を 吹き来る風に ヨヘホ ヨヘホ 」という一節が出てきますね。

昔は、今ほど木々も茂ってはおらずはげ山だったそうです。
その姿は、山鹿方面からは山鹿版富士山だったのでしょうね。

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