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前回、その前と鹿本町の観音札所を紹介しました。
今回は、前回紹介した平原寺よりほど近い場所にある、「日岳五社神宮」を紹介します。

日岳五社神宮の場所はこちら

観音札所「平原寺」を左手に、坂道を上ります。
すると、竹林に囲まれた一段上がった場所に、鳥居があります。

いきなり、石段が現れますので、見過ごしてしまうかもしれません。
石段を上がると、両脇に狛犬がおられます。

鳥居をくぐると、参道200段の石段を上ります。

石段を登りながら、段々と神聖な雰囲気に包まれます。


では、ここでこちらの由緒などについてご紹介します。

◎ 日岳五社神宮について

鹿本町史より
◎ 祭神
豊受姫神 / 応神天皇 / 別雷神 / 底筒男神
武御雷神(従来明細張には別雷神と伊装冊神底筒男神を大綿津見神に作る)

◎ 合併祭神
道真公(菅原神社) / 橘逸勢公(御霊神社) / 天照皇大神(蓮輪神社)
道真公(菅原神社)以上明治42年4月合併

- 由 緒 -
後醍醐天皇の建武二年(1335)菊池肥後守武重、足利氏征伐の勅命を蒙り、兇徒を平げんとして先ず武神五社(伊勢神宮・八幡宮・加茂神社・住吉神社・春日神社)の神霊を当地の山上に奉遷し、社殿を建立した。
是より、聖主擁護の尊神として崇敬厚く嘉例の祭儀怠るところなかった。
降って細川候の時代に及び、当地志水伯耆守源元之神祇の衰微を憂い、本殿、拝殿、楼門を再興し、境内を整備し参道二百段の石段を構造した。
明治初年地租改革に伴い、神田は民有に帰し、祭祀も往昔の面影を減ずるに至った。

明治42年4月、字広江鎮座元無格社御霊神社、字蓮輪鎮座蓮和神社、字本村鎮座菅原神社、字十重鎮座菅原神社を合併。

-由緒補遺-(鹿本郡誌)
宝暦五年(1755)乙亥八月二四日、台風倒潰。宝暦六年(1756)十月一二日再建。

と、この様な由緒書がありました。

凄く歴史ある、お宮なのですね。
此の時に訪れるまで、まったくと言っていいほどこちらの事は存じませんでした。

境内の様子


境内には、猿田彦大神なども祀られています。
叉、拝殿左側奥には、古墳もありました。

津袋古墳群(五社宮古墳)※県指定文化財


鹿本町史の[第3章 通史-原始・古代-]の項[P100]に、この五社宮古墳についての記述があります。

■ 五社宮古墳 ■
小丘陵の南端、日岳五社宮の境内に存在する古墳で、谷を隔てて大塚古墳と並んでいる。
墳丘は、社殿の為にほとんどを削られてしまい、西南隅にその一部を残すのみであり、規模は不明である。
墳丘の残外部から西北西の方向に細い平坦部が続き、前方部の可能性を考えさせるが、その端が頂塚古墳へそのまま続き、明確でない。
円墳と考えた方が、無難であろう。
主体部も古く破壊されている。現在神社の境内に家形の石棺蓋の破片が残っており、当古墳のものと考えられる。

■ 五社宮下箱式石棺 ■
神社の東南、参道石段の南側に箱式石棺が出土したと伝えられる。
叉、同地付近にはほかにも石棺が埋まっているとの話もあるが明確でない。

と、このように記載がありました。
私の、勉強不足ではありますが、五所宮古墳の年代は今日時点では探せませんでした。

しかし、ひっそしとしたこの地も、すごく歴史深い場所ですね。
なかなか、地元の方々以外では訪れる方も少ないでしょう。

御朱印が頂けるお宮ではありません。
しかし、訪れてみるとその場所の雰囲気はすごく落ち着けるものがありました。

皆さんも、お時間ある時にでも一度立ち寄られてみませんか~。

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