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今日は、なかなか気づかない場所にあり見過ごしてしまいますが、山鹿の湯の町としての繁栄を見守ってきた霧島神社をご紹介します。

霧島神社

場所は山鹿市の中心にある、「山鹿中央病院」の奥まったところに鎮座しています。

山鹿市堀明町の民有地で広町との共有地のようです(改めて確認します)

祭神は、「瓊瓊杵尊」と「宇遅能和紀郎子命」を祀ってあります。


以下、昭和61年に発行された郷土資料「ふるさと山鹿」からの引用です。

この神社は昔、「光明寺」というお寺の境内にあったそうです。
光明寺の鎮守だったのでしょう。
光明寺は、「大同二年(807)」、慈覚(じかく)というお坊さんが、釈迦如来像を安置したという事です。それは言い伝えにすぎませんが、いずれにしてもずいぶん古い年代に建った大きな寺であったことには違いありません。

 鎌倉時代から室町時代までは、菊池一族に大事にされた為、大変栄えましたが、戦国時代に戦火にあってからは、遂に廃寺になったらしいです。
その寺の本尊の釈迦如来像は、あとで長源寺に移し、その寺跡には別の石祠を作って釈迦像を安置しました。
それが現在田島旅館の中庭にあります。(※現在、田島旅館はありません※)
又、その寺の地蔵佛は今、金剛乗寺の石門前に移してあります。

昔この寺の境内は大変広く、現在の産交バス停裏あたりから、堀明町、広町の一角まで及んでいました。
二十余町はあったそうです。
当時の人々は、光明寺の繁栄がなくては、湯の町山鹿の繁栄はないと言っていたそうですが、その光明寺も今はなく、境内の一角に建っていた霧島神社だけが残っています。

 又、先に書きましたが合併神の「宇遅能和紀郎子命」は、始めお薬師さんの東の角に乙姫神社としてあったものを、明治9年にここに移したのです。
乙護王社とも云って、阿蘇山の山伏たちが峰入り(阿蘇山頂から菊池平野に下ってきて、山鹿から鹿北を通って、肥筑山脈に入り、山から山を越えて35日間かかって阿蘇山へ帰る行事)の時に、このお宮に参って行をしたという事です。

※ 昭和61年に発行された郷土資料「ふるさと山鹿」からの引用 ※

これまでの山鹿市の移り変わりをこちらのお宮さんが見守ってこられたのでしょうね。

忘れてはいけないですね。

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