記事の詳細
石藤崎八幡宮のお話。
山鹿市の八幡地区。石村というところがあります。
その地区に、由緒ある「石藤崎八幡宮」がございます。
場所は、こちら。
さて、藤崎八幡宮というと、皆さんはこちらを思い浮かべられませんか。
熊本市中央区井川淵町にある、一千年以上の歴史を持つ、「熊本大鎮守と公称された御宮」と言われています。
藤崎八旛宮は、承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、山城国(京都)石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたのに始まったとされています。
さて、話を戻して、ご紹介する「石藤崎八幡宮」です。
こちらの鳥居は、石村から平山方面途へ続く、県道195号・和仁山鹿線沿いに立っています。
本来の鳥居は反対側にあります。
こちらです。
小さな石橋が架かっています。なかなかの可愛さです。
鳥居には、「藤崎八幡宮」と明記されています。
こちらの神社も藤崎八幡宮なんですね。
境内の横に、由緒を書かれたものがあります。
≪ 由 緒 ・ 由 来 ≫
当八幡宮は、承平五年、六十一代朱雀天皇の時、平 将門 逆心に就き、朝廷より追討を勅願、山城の国男山 石清水八幡宮より、橘 能貞(山城家の祖先)が別宮に勧請。此の時、男山の藤を切り、神馬の鞭を作り神輿を守護し奉り、承平五年十月十五日当地に御下着され、馬の鞭に使っていた藤の枝をこの地に指し神殿を造り始める。
その藤の枝は、神殿が出来上がる前に芽を吹いた故、藤が先として藤崎八幡宮と称し(俗説)、その藤を御神木とした。
ちなみに、石清水八幡宮は皇室との繋がりも深く、例大祭には、天皇陛下もご参拝なされ、戦国時代 源 頼朝 は出陣の際には、必勝の祈願を欠かさなかったと言い伝えられる由来に基づき、当八幡宮も今では、スポーツ大会などの必勝祈願の参拝があり、戦の神様・勝負の神様として崇敬されています。
由緒ある八幡宮であり、氏神様でもあります。◎ 御祭神 – 応神天皇(譽田天皇) 神功皇后
– 境内神社 –
◎ 菅原神社(菅原道真公・学問の神様)
◎ 若宮神社(仁徳天皇・家畜の神様)
さて、昭和61年末に、山鹿市の市老連が発行した「ふるさと山鹿」という書籍にはこのようにも記載されています。
・・・・承平五年 五月十五日、石村に着いてここに仮鎮座されました。
国府(熊本)に本社殿が出来て、神輿が遷座したあと持ってきた鞭を二つに切って、熊本と石村の神殿の前に突きさして藤が根付いて成長したので、そこを藤崎と呼ぶようになったそうです。
石村には、藤崎八幡宮の分霊を祀って、弟の橘 能政を神職としました。
石村から熊本へ遷座するとき能貞のほか、十二人の社家がお供しました。
この例にならって、熊本藤崎八幡宮の大祭には、京都からのお供をして能政を一緒に石村に住み着いた騎士と地元の名家が十二士となって、石村八幡宮の前を流れる岩野川の棚田の淵で、身を清め熊本に行き、藤崎八幡宮の「一の宮」の神輿を担ぐのがならわしになりました。
と、上記のように記載があります。
熊本の藤崎八幡宮と石村の藤崎八幡宮。
同じ流れを持つ由緒ある八幡宮なんですね。
さて、ここで神社内の様子を写真にて・・・
鳥居をくぐりますと、勇ましい狛犬と立派な楼門があります。
楼門内にある狛犬
楼門をくぐりますと、神殿が。
神殿手前にある石灯篭の上には、可愛い鳩がおられます。
さて、こちらは県道195号・和仁山鹿線の方にある鳥居です。
こちらにも狛犬が両脇に。厳重に守られていますね。
裏鳥居を入って、右側の神殿の裏手には、猿田彦大神の石碑が五つ祀ってあります。
また、神殿正面から左へ進むと、藤棚があります。
4月の藤の咲く頃に来れば、きれいな藤の花も楽しめますね。
その奥にも、三つ祀られていました。私は、詳しくないのでどれが何とはわかりませんがご存知の方は教えてくださると助かります。
神殿、左の藤棚の先には立派な舞台もありました。
九月中旬には、井出祭りがおこなわれ、子ども相撲が会ったり神社もにぎわうようですよ。
是非、山鹿にお越しの際には立ち寄られてみてはいかがですか。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。