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– 雲閑寺と、伝宇野親治五輪塔群 – 旧山鹿郡三十三観音札所 十九番札所
今回は、旧山鹿郡三十三観音札所 十九番札所の「 雲閑寺 」をご紹介します。
観音堂の左横には、中村区の公民館があり、前はゲートボール場があります。
山鹿温泉を発見した『宇野親公』の菩薩所で、本尊は木彫の金色の観音立像。光背が見事です。
『鹿郡旧語伝記』には、「松風山雲閑寺。久寿元年近衛帝御宇に立つという。天台宗。この寺宇野七郎親治の菩薩所という。親治の塚ありという。五輪の塔多くあり、文字無き故何れとも知らず。定めてこの内なるべし」とある。
観音堂の記載はない。笠塔婆(1550)、板碑(1557,1590)がある。
年2回は女性だけのお観音さん籠りがあっているそうです。
三界の 火宅の門をぬけくれば 松吹く風身をやすずしき
雲閑寺の右向かいに三つの五輪塔が並んでいます。
大きさはほとんど変わらず大型です。
どれも銘はありません。
保元の乱(1156)に敗れて山鹿へやってきた宇野親治の墓と伝えられているそうです。
■ ≪ 宇 野 親 治 ≫ - 略 歴 - wikipediaより
大和国宇智郡宇野荘に住した。久安元年(1145年)、興福寺の衆徒が金峰山寺を攻めた時には、金峰山側について戦った。保元元年(1156年)に勃発した保元の乱において、崇徳上皇、藤原頼長方に加担。兵を率いて京に入ろうとするところを、警護にあたっていた敵方の平基盛に見咎められ、合戦の末に敗れて捕虜となる。本戦の間は獄舎に繋がれていたが、戦後赦免されて本拠の大和に帰された。これは、親治が大和国内で興福寺と対立関係にあることに目をつけた後白河天皇による、興福寺牽制のための政治的措置だったと言われている。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵の際は、息子を源頼政に応じさせた。
後代、南北朝期の武将4代孫の大森彦七や戦国期の武将土方雄久、隈部親永などが親治の末裔を称している。
※この記事は、以下の書籍を参考に書いています。
(山鹿市の指定文化財(改訂版)-ふるさとの文化遺産-)
(山鹿双書四・旧山鹿郡三十三か所札所巡り・児玉徳夫講演録より先生講演録)
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